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消えた3月(上) [雑]

2011年04月04日

3月は、あという間に過ぎたるの感あり。
大地震発生時、われは勤務先に居ったが、真剣に死を覚悟した程勤務先は揺れたり。勤務先の入るビルは、個人所有の古く汚く狭小なる雑居ビルである。当然、都の耐震規制施行以前の建物であって、午後3時半に非常階段スペースを検分したるところ、各階横にヒビの走り、特に2-3階間、3-4階間のヒビは、ずれをきたしておった。地震中には、事務所に於いては3台の書棚は全て倒れファイルの散乱、あの重き複合機は1メートルも動き、机上の液晶モニタは全て倒れ、PC本体は落下し、島状の机群も動き、重きファイル満載のキャビネットはバタンバタンと開閉を繰り返し、という状態であって、書棚側の席の同僚の、恐れしゃがみ込みたるところ、強引に書棚の反対側に引張り込み、壁に背をつけしゃがみ張り付き、机に腕を突っ張りて何とかころがらず態勢を保つという有様である。おまけに窓より見える向かいのビルの、実にわらんわらんと大揺れしており、当方の揺れと相俟って、これはいよいよダメかと思うたものであった。
くそボロ雑居ビルの、幸いにも倒壊を免れたるゆえ、揺れの収まりし直後、会社の固定電話を使い自宅に電話を入れたれば、母の元気なる様子、割れ物もひとつも無く、ただ春休み中の甥及び拙宅に住まう猫ニャン太の恐れおののきたるのみ。同僚もケータイにて自宅に電話すれば、繋がらず。慌てて会社の固定電話にてかければ、繋がる。しかし5分後には、固定も繋がらぬ事と相成りたり。くそボロ雑居ビルなれば、長居は無用と思いしが、ありとあらゆる物品の散乱せしにより、通路無し。ファイルをがらがらと寄せ、何とか書棚を起こし、道を作りつつ非常階段に出てみれば、非常階段も、ファイルで床の見えぬ有様であった。事務所は実に狭きゆえ、ファイルを非常階段に積み上げておったゆえの事である。われらはかねてよりファイルを捨てる様進言しておったが、勤務先の社長は稀代の愚者であるから、全てを取っておきたがり、しかも消防法上は完全に違法である非常階段置きをしておる。同僚とわれは怒りに燃え、全部捨ててやろうと誓い合いつつ、ファイルを蹴り分け道を作る。4時を回りてやうやう道の出来、荷物を取りに事務所に戻りて、交通状況など調べようとyahooを見れば、案の定交通機関はマヒ状態である。かねてより報告されておった「帰宅難民」の現実化したり。わが自宅は23区内であるが、同僚は埼玉であって、徒歩帰宅はほぼ絶望的である。とりあえず落ち着こうとまずトイレに行くと、タンクの水が半分以上床に散乱しておって、タンク自体やや右に傾いておる。これ程揺れるとトイレのタンクの水もこうなる訳である。当たり前なのではあるが、日頃思いもせなんだ。そうこうする内、愚社長のエレベータを使いのほほんと帰社し、事務所が有様を見て驚愕しおった(つまりこのくそボロ雑居ビルは他所に比し格段に揺れたのである)。おまけにこの愚者は「もう仕事はいいから早く帰って」と寝言を吐く。同僚はキれ、「電車も動いていないのに、早く帰れもあったものじゃない!」と怒りを露わにす。われらは不愉快の極に達し、社長を残し、荷物を持ちて非常階段を降り、外に出でたり。すると一階三階の面々の外に避難しており(くそボロビルゆえ、二階四階は入居者がないのである)、外から見てもこのビルのみえらく揺れておった旨をわれらに話すのであった。同僚はとりあえず上野駅まで行ってみる、と言い、われはわが上野動物園の非常に気になりしゆえ、途中まで同道し、しのばず通りにて右左に分かれたり。西園入口に達せしは午後4時45分であった。既に入園時刻の過ぎたるは承知の上、スタッフに皆の安否を尋ね、「今現在は、多少物の落ちた他は、特にスタッフも動物も怪我なし」との答を得、一安心す。ここから徒歩にて自宅に帰る。スタートは午後4時50分であった。このくそボロ雑居ビル内に勤務すると決定して以来、われは一度も革靴にて通勤したる事の無し。なんというてもくそボロビルであり、いつ何時災禍に合うか知れたもので無きゆえであるが、それが奏功してしまうというのも嬉しく無し。ともかく歩く。われは方向感覚に自信のあり、一度地図を見れば、必ず辿り着くを得る。今回もその伝で、道にある地図を折々に確認しつつ西進、飯田橋を過ぎたる辺りでコンビニに寄る。エネルギーと水分補給が目的であったが、菓子パンの類は売切れておったので、変なパンケーキ4個入り袋と水を購入し、摂取しつつ歩を進める。市ヶ谷に達したるは、出発から丁度1時間であった。平生であれば、このまま順調に進めば、恐らく2時間半を切る可能性もある。しかし、何しろ緊急時である。特に四谷から新宿を越えるまでの間は、歩道はぎゅうぎゅうであって、文字通り牛歩の如く進まねばならぬ。一方車道は、これまた大渋滞でぎゅうぎゅうである。ゆえに遂には車道を歩く者も出る。われもそのひとりであった。延々歩くに際しては、グループで歩く者は横に拡がり、喋りつつであるから歩みも遅くなり、大変に迷惑なることであった。四谷より新宿通りを西進して来たるわれであったが、新宿御苑辺りより、御苑側に入りて、甲州街道に抜ける。坂を上がりておると、Flagsの壁面スクリーンに、気仙沼の大火災の映されたり(TVのニュースである)。ここに於いて、われは初めて今回の地震の主たる被害は東北、しかもその被害の甚大なるを知る。同じくこれを見て初めて大惨事と知りし人々の、息を呑みて画面を見つめたり。恐らくいずれも思うところは同じであったことであろう―――「われらの災難の何とたかが知れたる事か」(しかしこの時点では、まだまだ被害報道は序の口であって、翌日以降、地震よりもむしろ大津波による壊滅的被害を知るに及び、愕然とするのであるが)。われも暫し呆然と見入るが、ここで滞留せしは通行の邪魔につき、横目に見つつ、尚も歩を進め、予想通り丁度3時間にて、午後7時50分に帰宅を果たすのであった。自宅は電気は問題無きが、ガスの止まりておって、汗と埃にまみれたる身なれど、風呂は断念す。ガスは恐らく非常停止装置の働きたるものと思われたが、二階と協議の末、念の為一晩戻さず様子を見る事とした。午後10時頃、沿線の神奈川県近くに住まう叔母より電話のあり、所用にて池袋に出ておったものが、地震・交通麻痺に見舞われ、自宅まで帰り着くを得ず、辛うじて動き出したるバスにて、新宿よりわが町まで辿り着きたるそうで、叔母は拙宅に泊まる事となった。家が心配と電話を入れてみると、叔母の夫は食事も済ませ風呂にも入り、日常通りに過ごしておるという。所により大分状況に差のあるようである。一方拙宅の甥とニャン太は怖れおののきて、甥は両親の帰宅まで一階こたつより離れるを得ず。拙宅では壁に飾りし皿の類に至るまで割れ物の類一切無いのであるが、甥の言によれば、二階は割れ物こそ出なんだが、どうも相当に揺れたるらしい。以後2週間、甥は日中即ち両親の帰宅したるまでを一階居間にて過ごす事となる。また、ニャン太も、見回りには出るものの、こたつを防空壕と心得、余震の度に自発的にこたつに飛び込むのであった。拙宅のこたつは家具調にて、足はがっしりとしておるゆえ、ヒトよりむしろ安全の感あり。ともかく、念の為壁の額や皿を全て外し、転倒防止の為TVにクッションを挟み込む等して余震に備える。また、自宅においてはなるべく全員(というても甥を入れ3名であるが)居間に居り、大揺れの際は室内の最も安全と思われる一角に集うと取り決めたるが、NHKや甥が携帯電話に警報の上がりても、母のみゆっくりと立ち上がり様子を窺うという愚挙に出るゆえ、様子を窺うは避難角に達してのちにし、ともかく直ちに避難せよと叱るわれとの間に口論の絶えぬ1週間であった。おまけに原発である。以後、3月末日に至る迄、ここ迄に記したる事に塗りつぶされ、3月は何が何だか分からぬ内に飛び去りたり。否、煙の如く消え去りたり。


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