SSブログ

応援しておるぞ! [朝青龍]

またである。
また重要なる情報をすっ飛ばして尾ひれが肥大化し、嵩にかかってわが朝青龍を責め立てておる。

何があったか知らぬがアサショー、何があってもわれは応援しておる。どうかどうか踏ん張って欲しい。そして周囲には、アサショーのサポートをくれぐれも頼みたい。
今回の事は事実関係も定かでないのだが、それにつけても思うことがある。アサショーはコトの後半大泣きしていたという。その気持ちはよーく分かる。
なぜアサショーだけが厳しい評価をされるのか。
なぜアサショーだけがいつもいつも叩かれるのか。
何度も繰り返し言うた事だが、雑誌・スポーツ新聞の類=カストリは、アサショーに関しては決して公正な報道(と呼ぶのももったいないが)をせぬ。素晴らしい活躍をした、善行をしたような場合においても、必ず何か含みのある揶揄せし表現を用い、常に何処か傷をつけずにおかぬ。しかもどこまでもダニの如く貼り着きて歩き、とにかく何か問題を起こすもしくは起こさせるのを餓鬼の如く待っておる。「私も人間ですから」とはばるとの言うたセリフであるが、アサショーこそが言いたかろう。どれ程努力し結果を出しても報われる事なく、しかも完全無欠の如き振る舞いを当然視されその型に合わぬがゆえに誹謗される。今回思うたのは、われはアサショーに余りにも無理をさせておったのだということである。いやわれは個人的に知らぬゆえ、実際に無理をさせたという事ではないが、絶対再起不能に近い状態から余りにも強く蘇りしゆえ、いつの間にやらわれは、アサショーの精神ははそれこそ完全無欠の強靭さなのだと思い込んでしもうた。人間である。そんな筈はない。ああして強く蘇るに、どれ程のエネルギーを要したか。更に、常に嫌がらせ的あげつらいを重ねられ、それでも笑うて受け流しておったアサショーに、われは完全に錯覚を起こしておった。笑い受け流しつつ、少しずつ傷つくのである。傷の数が増える程、傷は大きくなるのである。カストリや良識的な専門家気取りの者共の無責任な放言の数々を、笑って受け流しつつ、内心どれ程消耗しておったことか。呑むと荒れる者には、荒れる理由があるのである。今回は暴力の事実関係が不明であるが、いずれにせよ、われは絶対平和というものを信じぬ。「何であれ暴力はいかん」等としたり顔でぬかす輩には反吐が出る。かつてたけしが軍団と共にフライデーに殴り込みをかけた際、われは衷心より快哉を叫んだ。それは何故か。暴力には2つある。物理的暴力と、言語による暴力である。ウチダテによる暴言の数々、面白がって囃し立てるカストリのそれは、暴力ではないのか。私生活を暴き、仕事を離れた私的時間にまで隙を求めてつきまとうのは、暴力ではないのか。いじめが問題視されて久しいが、その殆どは物理的暴力でなく、言語による暴力である。それを反省もなく繰り返すのは誰か。カストリが、アサショーの事を言えた義理か。こういうことが堂々とまかり通る、いやむしろ世の中じゅうが嬉々としてそれを享受する中にあって、どうやって青少年に対する「いじめはいかん」という言葉が説得力を持つというのか。二重規範はもう沢山である。

それにしても、アサショーとその周囲は、無防備というか、脇が甘過ぎる。何しろダニ共は、ユダヤ人を摘発するゲシュタポの如き陰険さ・執拗さで見張っておるのである。足元をすくわれぬ様にするには、ゲシュタポからユダヤ人を守る、ぐらいのレベルでガードせねばいかん。例えばアサショーが飲酒する際には、屈強なボディガードを4人ぐらい張り付けておくべきである。荒れ出したら四肢を一人一本ずつ担当するのだ。一人につき腕1本や脚1本なら、押さえつける事も可能であろう。アサショーは宝なのである。宝を守る事を、周囲はもっと周到にやってほしい。時には本人を押さえつける事も、守りには必要なのである。遅きに失したの感はあるが、くれぐれもよろしく頼みたい。アサショーも、何かあったら親御さんや家族の顔を思い出し、時には己を律する様に頼みたい。アサショーが我慢に我慢を重ねて来ていることは、ファンは分かっておる。ただ、今回の如く足元を掬われる隙を見せぬ様に気をつけて頂きたい訳である。

再びアサショーの相撲を見る事を、切に望む。
応援しておるぞアサショー!
 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。